伊豆は浜松から近く、35年前に社内旅行で行ったことがありますが、一度自転車で走りたいと思っていました。 秀策の師秀和が西伊豆の出身で伊豆市の最福寺に記念モニュメントがあると聞いたのが、出かけるきっかけになりました。 概要 (2007年5月7日〜9日、往路浜松〜沼津と復路清水〜浜松はJR、復路土肥〜清水はフェリー、沼津〜下田、石廊崎〜土肥は自転車(走行距離190キロ) 5月7日 沼津の東、富士山の湧き水を誇る柿田川を経由し、天城越えで河津町まで、 5月8日 河津町の菖蒲、カーネーション園、下田、石廊崎経由松崎町まで、 5月9日 恋人岬、最福寺、土肥と走り、フェリーで清水に出て、次郎長のゆかりの地を回りました。 |
5月7日 | |
沼津までJRで行きました。自転車での走行は沼津起点で、200キロ弱を3日で走るのだからと、正確な走行距離は事前には調べずスタートしました。 柿田川というのは湧き水を全ての水源とする川で綺麗な水で有名です。近くに新幹線三島駅もあり、東海道新幹線で使う水は、全てこの川の水だということです。 | |
このアングルの写真は柿田川の紹介のサイトにも掲載されており、湧き水が吹き出ている場所で、第一展望台の右手にあたります。 柿田川公園として第一、第二展望台を始め、整備されています。 | |
第一展望台から左手にあたります。 | |
特に確認しておりませんでしたが、地図から見ると、清水広場だろうと思います。 | |
急に昼食の写真になりました。猪なべです。私の昼食にしては、随分奮発したので、記録に残す必要があったのです。柿田川から国道136号線を走り、湯ヶ島の近くの旅館で喫食しました。鉄砲で猪狩りをするらしく、今でも、そういう客が泊まるとのことでした。我が家の長男、その嫁さん、両方とも干支が猪でした。撃つのも食べるのも同じだと言われそうですけど・・・。 | |
浄連の滝、35年前にも見ているはずです。名前は記憶があります。 | |
滝の入り口にはワサビの田んぼがありました。この近辺は、ワサビの有名な産地らしいです。 | |
この辺りは標高500メートルくらいでしょう。こういう高地がワサビには良いのでしょうか。 | |
暗くて、狭くて、車が通ると自転車に乗っているものにとっては大変怖い、天城トンネルを過ぎると、下りになります。8月と違って、今回は5月、気持ちよく下るというより、寒さがあって、快感はかなり割り引かれます。 でも、この橋はかなり降りたところなので、寒さも和らぎ、ぐるぐる回って気持ちよく降りました。 | |
松崎町と言っても、宿泊予定の禅の湯ユースホステルは思ったより北にあって、通り越してしまいました。お陰で、ここ伊豆の踊り子記念モニュメントを訪れることが出来ました。 | |
上の写真の左側(右岸にあたるわけです)iこのモニュメントがあります。 「伊豆の踊り子」の映画はたまたま帰った後にきむたくのを見ました。ここを訪問した後なので、より深い感銘を受けました。 | |
禅の湯の風呂にゆっくり入りました。ネットで見る禅の湯ユースホステルと外観が異なっていたので通り越してしまいましたが、私の訪問の為かと思えるほどのタイミングで風呂が改装されており、他の客もいないので、自動シャッターで撮影しました。ホステルには内緒ですが、少し、泳いでもみました。 | |
泳いだりしているからアルファ波に変わったとはとても思えませんが、こんなことが書いてありました。 今度行ったらアルファ波に変わるように努力します。 | |
5月8日 | |
杉鉾神社の大楠 江戸時代に「河津郷七抱七楠」と呼ばれていた楠で現存する唯一の楠木ということらしい。詳細は下の写真の説明を参照して下さい。 | |
河津町は菖蒲で有名と聞いた気がしたので、通りかかった菖蒲園に入園しました。まだ、時期が少し早すぎて、一部しか咲いていませんでした。持参したレンズは最長135ミリだから、背景がなかなかボケないので、悩みました。 帰った後でカメラの先輩に聞くと、オートフォーカスにするより、マニュアルふぉーかすにした方がボケ味が出るということでした。勉強させていただきました。 | |
隣のカーネーション園で撮影しました。 | |
弓ヶ浜です。美人のお母さんと息子の親子づれだと勝手に思って撮影しました。 | |
ハリスロードと並行に流れている川 | |
ハリスロードの近くのパスタと雑貨のお店。ハスタは夫、雑貨は妻が仲良く?店を守っている。 後から営業しだした雑貨の店も頑張っているみたい。 | |
お吉記念館を訪問しました。 お吉さんは、本人が望んだことではないにも拘わらず、ハリスの世話をし、国の為につらい思いをしたのに、悲しい生涯を過ごしたことを改めて、唐人お吉記念館で認識しました。 |
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下田公園のモニュメント。「日米修好の基礎は下田において築かれた」と記されている。 | |
石廊崎の灯台。50年前と異なり、この種の灯台は、現在は無人です。 | |
灯台と異なり、多分50年前は無人だった社は、店番(正式には何というのだろう、社守?)というか、巫女さんが常時詰めている。若く、美しい巫女さんだったので、こんな寂しいところに1人でいるのか聞いたところ、季節が良くない時でも、交代で来るらしい。自分の知らない世界はいろいろあるとは思うが、それにしても・・・。 | |
松崎町に近づくにつれて、人魚が出没するようになった。この様な像(本当はニンベンではなく、サカナヘンであるべき)が数百メートル毎に出迎えてくれた。 | |
2日目、90キロくらいの走行距離だったが、自分の見通しと比較して、海岸線の近くを走った割には高低差があって、厳しい走行となった。やはり、疲れの感じ方というのは、気持ちの有り様により大きく異なるところがあり、この写真はユースホステルまで数百メートルのところまで来ていた訳だが、かなり疲れを感じていた。 | |
宿泊の三余荘、ここは年配者が運営しており、ユースホステルのルールをきちんと守らされる。あまり、合理的なルールとは思いにくいルールだったので、抵抗はあるが、年配者に花を持たせ、守らせていただいた。 同宿者は1人だけで、オートバイでのツーリングで、日本の西の果て(石垣島のなお西とのこと)まで行くということだった。ユースホステルは同宿者に気軽に声を掛けられるという雰囲気が良い。 | |
5月9日 | |
朝、目的の最福寺に寄る途中の恋人岬に行きました。県道17号線より岬の先端まで1.5キロくらい。鐘のいわくは下の写真に書いてありました。 | |
最福寺に到着しました。入り口には秀和(1820年文政3年−1873年明治6年)の業績を称えたモニュメントがあります。 ここはしだれ桜でも有名のようです。1ケ月くらい早く来れば鑑賞できたかもしれません。 | |
モニュメントには、秀和と因碩の対局棋譜の一部が形作られていました。 ただし、この棋譜に該当する碁が見つかりません。案内してくれた人が幻庵因碩との碁だと言ったので調べてみたのですが、分かりません。ただ、左下も右下も一段落していないので、変ではあります。 | |
最福寺の展示館です。 | |
坂田栄男九段、林海峰名誉天元などの名前が見えます。タイトル戦を土肥で行った時に寄られたらしいです。 | |
日本国中囲碁段附一覧と書かれています。坊門だけでしょうが、秀策、村瀬弥吉、伊藤徳兵衛、岸本佐一郎、葛野亀三郎、関山仙太夫らの名前があります。秀策との碁や、今後秀和との碁を鑑賞することになる筈です。 尚、伊藤徳兵衛は遠州三沢村の出身、秀策が2度目の帰郷の途中で4局の対局があったと「秀麗秀策」に記されている。遠州三沢村は多分静岡県菊川市三沢で、自宅から40キロくらいのところと思われるので一度行ってみたいと考えています。 | |
「座隠談ぎ」の正本か写本かわかりませんが、秀和の著作と思われる本もあります。 | |
坂田栄男九段の色紙です。 | |
最福寺から土肥港へ降りて、フェリーに乗り、清水港まで約1時間。港から数百メートルのところに清水港船舶記念館「末廣」がありました。「清水」と言えば「次郎長」を連想するのは、私くらいの年齢だと当たり前で、清水の次郎長(1820年文政3年−1893年明治26年)は講談本、映画などでお馴染みです。次郎長の記念のものを見たくてのフェリーによる清水訪問でもありました。 | |
有名人がいろいろ訪問しており、この写真は三倉茉奈・佳奈姉妹です。 この2人との出会い?はNHKの英語講座・街角リスニングだと思ってこの写真の写真を撮ったのですが、調べてみると、NHKの朝ドラ「ふたりっこ」に出演しているということなので、そっちのようです。街角リスニングでは、前に会ったことがある様な気がしていましたが、そんなことだったのでした。 | |
次郎長の生家。 | |
次郎長は所謂、ヤクザだったのですが、「任侠道」という世界で、さわやかな印象を我々の世代に与えてくれています。 | |
ここを訪れて初めて知ったのですが、明治初めに、英語教室の開講に尽くしたようです。いままでのイメージからすると「へえー」という感じです。 また、土地の開墾にも尽力し、富士の裾野の開墾など、その開墾地が現在お茶畑として毎年全国の家庭へお茶を供給している様です。 | |
次郎長の写真 |