2005年8月の自転車ツアーのきっかけは、囲碁きっずの京都オフ会(ネット碁仲間が石を持って打つ会)でした。 2006年8月も囲碁きっずの京都オフ会をスタートに京都起点、因島経由広島まで450キロを走りました。 因島は江戸時代の偉大な棋士秀策の生誕地、広島は30年以上前に仕事をした土地で仕事仲間だった人達のいるところです。 概要 (2006年8月19日〜26日、内自転車走行距離450キロ) 8月19日 浜松から、JRで京都長岡京駅へ、同駅から自転車でオフ会会場の八幡市へ、 オフ会終了後大阪の初孫の家へ 20日 25年前に住んでいた千里丘近辺を自転車で走る 21日 大阪をスタートして、懐かしい地名の道路標示などを見ながら走る ヤマハ時代お世話になった明石のNさん宅を訪問させてもらいました 宿泊 浄運寺YH(ユースホステル) 22日 赤穂城跡、倉敷の町並み、チボリ公園などを観ました 宿泊 倉敷YH 23日 しまなみ街道経由で因島まで走り、江戸時代の最強棋士秀策の墓参り 宿泊 民宿 布刈(めかり) 24日 因島から生口島、大三島を走り、フェリーで竹原へ出て、呉まで走る 宿泊 ビジネスホテル(YHがありません) 25日 呉から広島へ、広島では昔の仕事仲間と旧交を温めました 宿泊 仲間の一人宝積さんのところに泊めてもらいました 26日 広島から青春18切符で浜松へ、途中京都で途中下車 昔、ヤマハ京都で活躍していた仲間と昼食を共にしました |
8月19日 囲碁のオフ会の写真を掲載すれば良いのですが、非公開とすることになっていて、写真はありません。 | |
8月20日 | |
33歳からランニングを毎朝する様になりましたが、その時のランニングコースを自転車で走ってみました。JR千里丘駅の東ですが、周りの景色が随分変わっていました。 | |
息子の通った三宅小学校で、町内の子供会のチームがソフトボールの練習をしていました。私の2人の息子もチームに入っていましたので、懐かしく、しばし練習を見ていました。
コーチの中に当時からやっていた方がいて、昔話に花を咲かせました。 | |
8月21日 | |
いよいよ広島に向かってスタート。中国自動車道の下の中央環状線を走りましたが、こういうところは、自転車走行への配慮がされていなくて、ところどころが自転車進入禁止になっていたりして、自転車で走るのは、結構分かりにくいものがあります。環状線からやむを得ず離れないといけないなど、回り道を走ることになったりするからです。 | |
大阪から神戸に走ると、武庫川、夙川など懐かしい川に出会います。 写真は夙川オアシスロードです。 | |
平磯海釣り公園 以前家族4人で釣りに来たことがあります。釣った魚、多分オコゼ、に刺されて痛い思いをした記憶があります。 | |
明石海峡大橋で、愛車にも被写体になってもらいました。 ここで、一緒に仕事をしたNさんのことを思い出し、訪問させてもらいました。 | |
姫路の西を流れる揖保川です。当日の目的地揖保郡御津町室津の浄運寺ユースホステルまであと10キロになりました。 | |
浄運寺ユースホステルの部屋からの夕焼け。当日の客は私一人でした。ユースホステルの会員証もきちんと確認しなかったところをみると、ユースホステルは名前だけの様です。お寺なので広さは充分、広い部屋でゆっくり休みました。ビールは頼んでも出してくれなかったけど、値段は夕食付で3000円と超格安。 | |
8月22日 | |
赤穂城跡に寄るために、朝7時にホステルを出発しました。 朝の室津漁港です。 | |
相生の港でしょうか。相生の中心街の少し西の港です。風景が気に入って、バックからデジタル一眼を出して何枚か撮影しました。 | |
赤穂市の東の高取峠にこんなモニュメントがありました。主君が松の廊下で刃傷に及んだという一大ニュースを江戸から赤穂に伝える第1報を乗せた籠です。江戸から155里(約600キロ)を昼夜休まず4.5日で走ったというから平均時速5.5キロで走ったことになります。今私がこのルートで自転車ツアーを組んだら、道路が現在の様に整備されているという条件で、同じ位で走れますが・・・。 | |
赤穂市にある大石内蔵助宅跡。 | |
この入り口の向こう側には内蔵助宅の庭園があります。 | |
内蔵助宅の庭園 | |
内蔵助宅の庭園にある大楠木。 赤穂における浪士達のことを見守っていた楠だそうです。 | |
大石内蔵助宅跡の奥に大石神社があり、そこに47士全員の像があります。左は、浪士の中でも特に有名な堀部安兵衛。彼は旧姓中山安兵衛で、現在の新潟県新発田市の出身です。高田の馬場の仇討ちで堀部弥兵衛にみそめられて、養子になった話は有名です。 波乱万丈の生涯ですね。 | |
県境の福浦峠にある標識。標識という表現ではぴったりしないほど立派。 | |
岡山市の東を流れている吉井川。川沿いに南に走りました。 | |
こんなのどかな風景にも出会いました。 | |
倉敷は倉敷ユースホステルに宿泊しました。ここは倉敷駅、倉敷美観地区の東の高台にあり、距離的には近いのですが、標高が高く、3度登りましたが、自転車で登ったのは最初の1回だけで、後の2回は歩いて登りました。 YHのオーナーと思われるオバサマの説明では右の大木はメタセコイアと言って生きた化石(アイビースクエアーの説明標識参照)と言える木だそうです。非公開ですがこのオバサマのお孫さんと私のツーショットも写しました。 | |
このオパサマの勧めで、倉敷駅の北側のチボリ公園に行ってみました。 ここは、公園という名前はついていますが、遊園地で、夜は男女のペアで行くのが良さそうな場所です。 ひとり寂しく、美しい光の遊園地を撮影しました。 | |
8月23日 | |
翌朝、美観地区を歩いてみました。ここは倉敷駅のすぐ南で、25年くらい前に出張で倉敷に来た時に、早朝、ランニングがてら走ったところです。 当時は、出張が多く、出張の時はいつもランニングシューズ、トレーニングウェアを持参していました。 その時も、今回も、朝早くなのでお店に入ったりは出来ません。入らない方が、空想を豊かにして、より、楽しいかも知れません。 ここは、GALLERY NAGOMI と表示してありました。どんなものが展示してあるのか、入ってみたくなります。 | |
うどん屋さん。入りにくそうな店構えだけど、美味しくて、安いかも・・・。 | |
この店は高い。 | |
瀬戸内御膳5,250円也。 | |
以下、美観地区の町並みを見て下さい。 | |
大原美術館も美観地区の中にありました。 | |
美観地区の外れにあるアイビースクェアー。訪問時はいつも人影が少ない(朝6時くらいだから、当たり前だが)ので、入りにくい感じだけど、自由に出入りしても良いらしい。 | |
以下はアイビースクェアーの内部です。 | |
アイビースクェアーについての説明。紡績工場をレストラン、結婚式場などに改装したらしい。 | |
アイビースクェアーにどんなお店があるか詳しく書いてある。 | |
アイビースクェアーにもメタセコイアがあった。 何故こんなにメタセコイアが気になるかというと、浜松のフラワーパーク、新宿御苑で、葉が落ちた状態のこの木を見て、どんな名前か知りたがっていたところだから。浜松のフラワーパークのメタセコイアの写真をYHのオーナーの思われるオバサマに見せたところ、同一の木だということが、そこで分かったからでした。 | |
メタセコイアの説明。覚えにくい名前で、YHのオーナーの思われるオバサマの説明では、「めっちゃ、せこいヤ」と覚えると良いそうな。あけぼのすぎだと言えば、聞いたことある気がするから覚え易いけど、メタセコイアとカタカナだから価値があるのかな? | |
アイビースクェアーのすぐ南にあったアンティークモール(古物商)。 | |
レコードの日本ビクターでお馴染みの犬の置物が無数に屋根に並んでいる眺めは、なかなかのもので、旅行客はほとんどの人が写真撮影をしていました。 | |
倉敷から、福山経由、尾道まで来ました。尾道からは本州に別れを告げ、瀬戸内海の島づたいに、「しまなみ街道」を走りました。これは最初の橋で尾道大橋です。 | |
この橋は随分前に出来たので、自転車が走るという想定は無いみたい。写真の様に歩道は狭くて自転車は走れなくて、押していかないといけないところがあります。 | |
尾道から向島へは「尾道大橋」、向島から因島へは「因島大橋」を渡ります。橋は結構高いところに掛かっていて、自転車だとそこまで登るのが一仕事。 | |
因島は江戸時代の囲碁最強棋士秀策の生誕地で、彼の墓は東京とここの両方にある様です。 | |
秀策の碑の前で、自動シャッターで撮りました。まだ修行が足りないので、自動シャッターの前では笑顔が作れません。自動シャッターで自分だけで撮影して、笑っている自分がいたら面白いと思うので、その図を頭に描けば自然と笑顔が作れると思うのですが、なかなか出来ません。 | |
この写真は、秀策記念館の館長さん(秀策の兄の子孫のオバサマ。秀策は子供がいなかったので、記念館、記念碑などはこのオバサマが管理しています。)に撮影してもらったものです。(だから笑顔が作れている)館長さんとのツーショットをお願いしましたが、残念ながら振られました。 もし、ここへ行ってみようと思う人がいたら、ここへ入るのは、このオバサマがいらっしゃる時でないとだめなので事前に連絡しておく必要があります。 連絡先はここをクリックして下さい。 | |
秀策に対する丈和発行の初段の免状。 | |
弐段から四段の免状。 | |
秀策の扇子。 字は秀策の書を書き写したもので、この扇子を持って打てば、きっと2目は実力が上がった結果になるだろうと思います。 忘れ物 ここは有名なプロ棋士が来ていて、芳名帳に記帳しています。最新の芳名帳には、時本壱プロの名前がありました。古い芳名帳には沢山の棋士が記帳していると館長さんが話してくれたのだから、もっと時間をかけてゆっくりと見てみるべきでした。高名な、例えば、呉清源九段とかの署名をカメラに収めれば良い記念になります。この時の客は私一人だったので、あまりゆっくりしていては館長さんに悪いという気がしたこともあって、そうしようという気分にならなかったのはまことに残念。 | |
記念館の表に設置してある看板です。秀策について書いてあります。 1829年因島市(現在は尾道市)外浦町に生まれ、幼名を虎次郎と言い、母が囲碁を好んだ気質を受け、6歳で、すでに近郊に敵無く、1841年に名を秀策と改め1年に1段づつ昇段し、15歳で4段の免許を得ました。 秀策が20歳の時、本因坊家の跡目と決められ、その後6段位を受け本因坊丈和の娘、花と結婚しました。 1848年御城碁に始めて参加して以来13年間に不敗、19連勝という前人未踏の記録を作りましたが、1862年江戸にコレラが流行して34歳で亡くなりました。 囲碁を知っている人は、秀策の編み出した「秀策流の布石」を必ず知っているはず、と言ってよいほど、囲碁の歴史に大きな足跡を残した人です。 | |
8月24日 | |
因島で泊まった民宿の部屋からの朝日 | |
朝、瀬戸内海の海を写してみました。(以下4枚) | |
古い船と近代的な因島大橋の対比が面白いと思います。 | |
因島から生口島に渡りました。この島の北側の道路はサイクリングコースになっていて、潮風を浴びながらぐんぐんスピードを上げて(と言っても25キロから30キロですが)走る壮快さは、格別でした。 | |
因島と生口島の間に掛かっている生口橋。 | |
渡った橋の内、尾道大橋以外の新しい橋は、全てこの様に自転車道があります。 通行料はセルフですが、生口島(広島県)と大三島(愛媛県)に掛かっている多々羅大橋は100円で他は50円でした。きっとこの100円は広島県と愛媛県で50円ずつ山分けにしていると思います。(^^) | |
2倍の通行料の多々羅大橋 | |
大三島のコンビニの裏にいたワンチャン。 吼えて歓迎してくれました。我が家のあいちゃんは歓迎する場合に吼えるけど、一般的には違って、警戒されていたのかもしれません。(>_<) | |
大三島の盛からはフェリーで、本州(竹原市忠海)へ戻りました。 | |
竹原市で見つけた、町並み保存地区です。氷の旗が私を呼んでました。 | |
有名人が店に来たり(片平なぎささんが店に来た時の写真がありました)、写真の様な懐かしいポスターがあったり、楽しい店でした。 | |
唯一の欠点は、好みのカキ氷(せんじ、白雪、つまり白いカキ氷)がなかったこと。 訪問者の雑記帳があったので「せんじがないのが残念」と書いておきました。 一般的には好まれないカキ氷なのかな??? | |
上の店のほぼ向かいの店。ここも入りたくなります。 | |
昼食はここで、酒作りの店が、食堂もやってました。 どっかにビールって書いてあったので、思わず入ってしまいました。 | |
その食堂の内部。なかなか雰囲気のある店内でした。 この日は広島より東20キロの呉のビジネスホテルに宿泊。 | |
8月25日 | |
25日は朝一番で30年前に住んでいたところ(広島市南観音、今は中区南観音かな)に行ってみました。そこには、当時平屋の家が4軒ありましたが、今はその内の1軒しかありませんでした。私の住んでいた1軒はもう跡形もありませんでした。 写真は、4軒の内、現在残っている1軒です。 | |
当日泊めてもらうHさんの家のある丹那町の途中、両側に並木のある歩道には嬉しくなってパチリ。 | |
Hさんちの麻呂くんは「チベタンテリア」という珍しい犬種です。 | |
午後は平和公園に行きました。 目的は、公園で囲碁を打つ人達の表情を見ること、原爆ドームを撮影することです。 ここは、碁盤、将棋盤、ござの保管小屋。30年の間に、小屋が改築されたのかも知れない。 | |
囲碁、将棋の対局を三々五々行っている様子。囲碁はここ1面だけで、対局者に聞くと、最近は少なくなったらしい。今の若い人に囲碁がブームなので、数年先には増えるかも。 名古屋市昭和区の鶴舞公園でもこんな風景があるが、囲碁は鶴舞公園の方が盛んのようです。 | |
この慰霊碑の言葉はいつも心を打ちます。 | |
「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから。」 誰の言葉かわかりませんが、人類全体の誓いでありたいと思います。 | |
原爆の子の像 像の下の石碑に書かれた言葉 「これはぼくらの叫びです。これは私たちの祈りです。世界に平和を築くための。」 | |
原爆ドーム 昭和20年8月6日、史上始めての原子爆弾によって破壊された旧広島産業奨励館の残骸である。 爆弾はこの建物の直上約600メートルで爆発した。 その1個の爆弾によって20万人をこえる人々の生命が失われ、半径約2キロメートルに及ぶ市街地が廃墟と化した。 この悲痛な事実を後世に伝え人類の戒めとするため、国の内外の平和を願う多数の人々の寄金によって補強工事を施し、これを永久に保存する。 昭和42年8月6日 広島市 | |
原爆ドームを何枚か撮影しました。 いろいろの角度の写真を見てもらうことにより、より心に刻み付けてもらえればと考える次第です。 | |
この写真だけはバックの建物を削除しました。 | |
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8月25日夕方から26日 ヤマハで一緒に仕事をした人達と食事会を開いてもらいました。ここは個人の写真が多いので、ご覧頂きたい方へのみ別途メールで、パスワードをご連絡します。 また、長谷部の知人の方で写真が見たい方はパスワードをお問い合わせ下さい。 |